新見庄を訪ねて |
「新見庄」なんだか魅了的な言葉に反応してしまいました。倉敷地域の歴史を調べていますと、しばしば登場する言葉です。でも、私はその実態をほとんど知らない・・・。ということでツアーに加えていただきました。 |
新見市の北部一帯が新見庄でした |
![]() 現地では「新見庄」研究家の武本さんとおっしゃる方が案内役です。でも基礎知識がまったくない私にとって、その説明は半分も理解できません。(ごめんなさい!) やっと、現在の新見市の北部、井村から足立、神郷釜村、高瀬といわれる県境地域がそうだと理解できました。すごい山村ですね。「荘園」というのは奈良時代から平安時代にかけて、新たに開いた土地に私的所有が認められて、どっと広がったものと理解しています。で、ここは京都の東寺が開いた荘園の一つらしいです。というわけで山村になるのでしょうか?? 釜村というのは、私の前職でそこの農民作家をテーマにした番組を作った人がいまして、少々なじみではありました。でも、今日はそこまでは行かなくて、新見市のちょっとはずれを紹介していただいたようですね。 |
地頭所政所 |
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領家方政所 |
最後には「領家方政所」のあったあとらしいです。でも、私には理解不能ですね。領家方政所って、地頭所政所より100年ばかりあとだと解説していただきましたが、それで少し平地に降りてきている・・・。 途中で寄った八幡神社の姿が印象的でした。山の中の荘厳な神社です。そもそも数百年前の荘園の名残を捜し求めるということ自体が無理なのでしょうかね??。私には地元の日間山などの山上仏教の栄えた頃の形跡を探すという、その時代でのテーマはありますが、今回はあまり関係なさそうです。 武政さんは、荘園跡と、現代の未開放部落の名残とをマッチさせようとされていましたが、私にはよく理解できませんでした???。 というわけで、「倉敷地」という今の倉敷市の語源を握る、新見庄の旅は、謎を残したままの一日となったような気がします。(2009,11) |