もう一つの源平合戦 平家敗残の地は浦田之郷 |
以前には「源平水島合戦」についてのレポートをお伝えしましたが、この地水島の源平合戦と言いますと、もう一つのお話があるのです。 それは、水島合戦から1年余り後に行われた「源平藤戸合戦」で、敗れた平家が背後の種松山を越えて逃れてきて、児島の西端、ここ浦田之郷(現倉敷市福田町浦田)から船で水島灘に漕ぎだしたというお話です。
でも、「蟹ヶ坂」って何なんでしょうね。源平藤戸合戦をいちおう調査してきたと思っている私にもよくわかりません。
で、行ってみました。倉敷駅前から真っ直ぐに伸びた「古城池線」という県道が粒江側から登りにかかります。古城池トンネルまでのちょうど中間あたりに、左に入る道があります。これを行くと、工業団地があり、その先は種松山に至るのです。でも、左に入ってまもなくでした。左側にその古跡が見えてきたのです。
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写真のように、正面にいくつかの石碑があります。やはり高橋彪さんが関わって建てられたもののようです。 右側には遺跡を説明した石碑があり「・・・平氏敗走の浦田の郷 当地に多くの史跡が伝承されている。琴捨藪、升型、追っ掛け嵶(たお、たわ)、五輪様、源氏の嵶、蟹ヶ坂を越え、福田の浜より乗船屋島に・・・」などとかかれています。別の石碑には「この上・・狼煙台の跡」などともあります。 蟹ヶ坂は、最初に紹介したところですし、琴捨藪はここらしいですね。
そして、正面から少し上った所に公園があり、「源平史跡公園」とありました。多くの古い石塔などが残されています。どれがどれなのか、私には見当もつきませんが、ここが敗残の平家が救援を求めて狼煙を上げた跡なのでしょうね。 今回源平藤戸合戦で敗れた平家が、敗走してここ浦田の郷を通り、福田の浜から船に乗って、屋島まで落ち延びたということがわかり、私の郷土史調査のミッシングリングの一つが埋まった思いでした。 それに、ここ水島の歴史調査の過程で行き当たったのは奇しき因縁とでもいえるのではないでしょうか。やはり郷土史調査はおもしろいの一言につきますね。(2017,4)
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