亀島新田のこと 連島側の新田開発その2 |
![]() 実は前回「大江前新田」のところで触れた「京新田(のちの亀島新田)」についてちょっと知りたいと、地図をめくっていましたら、何と「連島町亀島新田」という地名が残っているのに気が付いたのです。 当時の亀島新田は、今はほとんどが「連島中央〇丁目」とか「神田〇丁目」「亀島〇丁目」という地名に変わっていて、古い亀島新田の様子が全く分からなくなっているようなんです。ところが、その北側、山際のところのほんの狭い範囲に「連島町亀島新田」という地名があるのです。 で、来てみたら、この「亀島神社」に行き当たった・・・というわけです
このお宮さん、いかにも新しそうで広い敷地に建っています。立て看板を見ますと、由緒として『元禄年間(1700頃)に亀島新田村が独立したとき、亀島にご鎮座の本宮を勧請した』とあります。
亀島新田の西の堤防の南の端にあたるこの「亀島大明神」を勧請して、堤防の北の端近くにこの「亀島神社」を祀ったに違いありません。
あ、そんなに単純じゃあないって!!。そうです。ここでまた、「近代干拓の歩み(渡辺義明)」から、亀島新田の経過を振り返ってみましょう。
とまあ、なかなかの難工事だったようです。亀島神社を勧請して祀る理由がわかろうというものです。
ここは、当時の干拓地西側の堤防跡の道路です。汐入川の東側、倉敷市連島保育園前から南へ続いています。以前は「八丁土手」と言われていたようです。
先に述べたように、この地域の干拓はここで約100年止まるのです。この堤防が100年間海との境を守ることになったのです。
で、干拓地といいますと、干拓地の水を海に排水するための水門があるはずです(「干拓地の水を海へ・板敷水門などのこと 」参照)。
やはりありました。亀島山の北側、亀の尻尾に当たる部分です。今は大きな水門になっていますが、そのお隣に、小さな石の水門が残っていました。すごい!!これが亀島新田を守った水門なのですね。
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