福田町古新田のこと |
![]() 弘化2年(1845)に開発され嘉永年間(1848~1853)に造成された福田新田より約125年前、享保2年(1717)から9年(1724)にかけて、備前岡山藩の手で開発されたといわれます。 もちろんこの地域の干拓と言いますと、浅い海の沖に堤防を築いて陸化し、上流から真水を流して田んぼに変えて行ったのです。 今の県道274号(福田老松)線と、古城池高校の前の道路に挟まれた地域がそれで、北端に濱田神社が祀られ、中央近くに古城池高校、そして南端に福田運動公園があります。現在2,400戸ほどの世帯数があり、古城池線以南には田んぼも残っていますが、ほとんどが家並に埋まって市街化しています。 福田新田ほどではありませんが、広大な地域で、それが「古新田」という一つの地名になっています。
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この神社は、秋のお祭りが盛んで、古新田の町内ごとに「千歳楽」が出て町内を練り歩くんだそうです。
濱田神社の横から、古城池高校の方に向かって、用水らしきものや主要な道路が扇状に広がっています。 干拓地に多い「用水」に違いないと、散歩の途中で出会ったお年寄りに聞いてみました。「そうです。古新田用水と言います。酒津から水が来ています。」「えっと、番水、水番ってありますか?」の問いに「もちろんあるよ。」のお答え。あーやはり私が生まれた帯江や豊洲の干拓地帯と同じなんだと思いました。 もう少しして夏になると、この川は1週間に一度、水で満水になって、周囲の田んぼに水が入るのでしょう。 ここにも「道の横には川がある・・・」という地域がありました。最近になって、「岡山県は全国一用水への転落事故が多い・・・・」と世間が騒いだのを思い出しました。
「一ノ割」「2・3ノ割」という名前の町内会の掲示板がありました。あっ、倉敷市亀山地区と同じように、ここも干拓後の地名に「〇ノ割」という地区割りを採用したようです。ここでも親近感がわいてきました。亀山は1~16ノ割までありましたが、ここ古新田は何ノ割まであるのでしょうね?? 倉敷市亀山地区は1652年開発ですが、ここ古新田は1717年開発開始と言いますから、その間に65年の違いがあり、備中と備前の違いもありますが、〇ノ割や用水のことなど、よく似た地域だと感じます。ただ、高度成長にともなう水島地域の発展で、ここ福田町古新田は住宅化がすごく早く進んでいるのだと感じました。
ここに渡辺義明さんの「近世干拓の歩み」という本があります。郷土史では大先輩の方です。それによりますと、福田古新田の開発に当たっては、当時福田、広江、呼松などの漁村をまとめていた大庄屋の佐藤九郎兵衛という人の尽力があったといいます。 古新田の東側には、種松山との間に「福田町福田」という地域が広がっています。ここ福田町古新田開発の基地となったさらに古い地域です。境になる道を歩いただけでも、「山の端」とかそれらしい地名が見られますね。おや、「元古新田」という地域もあるようです。今の古新田が開発される前に「福田村」の先を開発した「新田」があったのですね。ますます興味がわいた「水島地域」の取材でした。(2016,5)
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古城池高校 |