『 おもかじ いっぺーえ(いっぱーい)』 戦国連島の英雄・三宅国秀物語 |
「おもかじ いっぺーえ」
へ先の男は厳しい顔をそのままに、自分の部下たちをながめ渡した
男はふと懐に手を当て、厳しい航海の行く手に思いをはせた |
時は永正13年(1516)春先の事である。男は三宅国秀。堺との縁から「和泉守国秀」と名乗る。今の倉敷市連島(当時は瀬戸内海に浮かぶ島であった)に屋敷を構える、海上の保安を司る軍団の長である。当時こうした勢力はみな「海賊」と呼ばれたが、漁や海上交易に従事する海の人々の安全を守る大切な役目を持っていた。 もちろん海の中でも縄張り争いはおこる。三宅国秀はその中でも東瀬戸内一帯を支配し、郷土出身の堺の商人と連合して活躍していた。 これまで商都堺は対明貿易で栄えていたが、少し前に朝鮮で事件が起こり、朝鮮経由の明との貿易は中断していた。そのうえ応仁の乱のせいで、瀬戸内海の西口下関を支配する大内氏とも対立関係となり、瀬戸内航路自体も困難となっていた。 それで、幕府の意向で琉球航路を開拓しようというのが、三宅国秀たちの行動だったのである。
連島町史「第7章近世吉野室町時代」の中には三宅国秀について次のように書かれています。 永正の頃に連島に三宅国秀あり、自ら海賊大将軍三宅和泉守国秀と名乗り兵船を造り所謂倭寇の一人として横行したが其の13年に琉球を征したことから島津氏と縄張り争いとなり、遂に之と戦い6月朔日坊の津で敗死した。 今は静かな入り江となっている南さつま市坊津の風景・鹿児島県の薩摩半島(左側の半島)西南端近く ![]()
しかしこの件では、最近までいろんな説が出されているのが、次第に明らかになりました。たった2年前にも郷土史の大先輩、三宅昭三さんが「高梁川74号」という雑誌に論文を書かれています。 私は高校を出てから東京に出ていたんですが、長男が生まれて一週間後に三島由紀夫の事件があり、印象が強かったんですね。あとで郷里に帰ってから、郷土の英雄ともいうべき三宅国秀を知り、なんだか三島と国秀が似た感じがして、国秀についての興味をずっと持ち続けて来たんです。 連島町史では、三宅国秀は「倭寇として横行し琉球征伐に行った」ように描かれていますが、あれは粗略な見方ですね。薩摩の島津氏が、琉球に対する影響を強めようと、後になって自分の都合の良いように書いた資料をそのまま信じたんです。 国秀が薩摩の坊津で敗死した永正13年(1516)当時は倭寇のせいもあって、対民貿易の朝鮮航路がほぼ閉ざされ、応仁の乱で、瀬戸内航路も通れなくなった。室町幕府や堺の商人たちは困っていたんです。 堺にも縁のあった三宅国秀は、その意をくんで琉球航路を開こうと14艘の船団を組んで薩摩まで行ったんです。 そして襲われたんですね。 今では連島町史の視点よりも、こうした見方が歴史家たちの一般的な説になっていますよ。 三宅昭三さんの解説は明快でした。よかったです。三宅国秀が郷土の英雄であって!!!
三宅国秀については、浅口郡誌によりますと、さきの連島町史と同じ「琉球を取らんとして・・・」などと述べた後、「今浅浦に里人三宅氏の屋形と称し、石崖を積みたる屋敷跡現存し、その西方長谷寺境内に三宅氏の墓地には五輪塔羅列し一見して足利時代当年の仏を偲ぶに足るものあり」(276節)などとあります。 また、ウエキペディアなどネット上の情報では当時の事を島津氏の資料として、「薩摩側の記録によると、軍船で風上から国秀の敵船に近づき、積んできた枯れ草を投げ込み火を放ったそうだ。油断していた国秀らの船は残らず焼け、乗員は焼死、あるいは溺死して全滅したのである。」とあります。 そして、「大永元年(1521年)4月、国秀との関係は不明ながら、備中国の兵船が坊津を焼き払うという事件が起こっている。 」などともあります。な、なんと5年後に連島の兵団と思われる人々が仇討ち?に行っているのですね。 (2019,2)
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