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水島公害の歴史、水島協同病院 |
谷さんはまず医療生協の標語の説明から始められました。
水島で公害の問題に取り組む発端になったのは何でしたか?の問いに岡田さんが ![]() これは大変だと医療生協では公害委員会を設置して取り組みを始めました。呼松住民の健康調査、四日市公害の講師招聘、そして地域ごとの医療生協組合員が公害について学ぶ懇談会などに取り組みました。この懇談会が就職した私の最初の仕事になりました。
高度成長の波に乗って水島に誘致された巨大な工場群が操業を始めると、水島の空は急速に汚染していったのです。61年後半には近海で死魚や異臭魚が出始め、その後水島市街地でもポプラが枯れ、64年ごろには玉ねぎが腐ったような悪臭に悩まされるようになったのです。 |
突然に気管支喘息を発症した人、20歳の労働者が重傷の気管支喘息にかかり、病院に運びましたがその夜のうちに亡くなるとか、14歳の女の子が気管支ぜんそくのため空気のきれいな下関へ転居直前に発作で亡くなられたこと・・・。」
患者の方たちは病気の体を押して署名や街頭宣伝などに取り組みます。必死の戦いのなかでついに「倉敷公害裁判」、
裁判闘争になります。 (写真は倉敷医療生協「水島の公害」より) |
今はその和解金の一部で「水島地域環境再生財団」を設立。水島の良好な環境を取り戻すための取り組みを行っています。 その間、1953年に300人で設立した「水島医療生協」は、今では6万6千人の組合員の「倉敷医療生協」となり、この地域の発展と医療の前進のために奮闘しています。」 岡田さんの説明、とてもこのレポートで収まる規模ではありませんでした。しかし、全国的に有名になった「水島の公害」反対闘争は、この医療生協が住民や患者の皆さんとともに戦い、それがゆえに今の水島があるということが事実をもって語られ、圧倒される思いでした。
最後に、水島の大気汚染の現状についてお伺いしました。岡田さんの示されたグラフ(下の写真)によりますと、主要な汚染物質のうち、SO2(二酸化硫黄)は減ってきているのですが、NO2(二酸化窒素)はほぼ横ばいに近い状態のようです。
さて、ここでもう一人、倉敷医療生協(水島協同病院)設立者ともいうべき人、栗本泰治さん(元日本共産党県議会議員)のお話を聞かずにはおれない私でした。現在87歳という長命を保っておられ、まだまだお元気だといいます。 「私は高梁で生まれ、戦後は大原農研(1914年「大原奨農会農業研究所」として設立、今は「岡山大学資源植物科学研究所」)にいたんですが、その後倉敷市の阿智神社前の板野勝次さん(元日本共産党参議院議員)の自宅から水島に通って、自主診療所建設の仕事に従事します。
その人たちがお金が無くてもいい医療を受けたいとか、差別のない医療をという要求があったんです。そういう人たちの中で協同組合を作って、差別のない医療をやろうとしたんですね。大阪や東京ではもうすでにそういう運動が始まっていまして、各地に民主診療所ができていました。その一つですね。
診療所をどこにどう作るか、無一文ですから必要な資金をどう集めるか、お医者さんや看護婦さんはどうするのか、などなど山ほどの難題が待ち受けていました。苦難から逃げずに、一つ一つの課題をみんなに話して、多くの協力者を作って、みんなの英知で難題を乗り越えていきました。 とつとつと語られる栗本泰治さん、倉敷医療生協の専務理事を務められたのち、日本共産党から岡山県議会議員に当選(1971年・昭和46)、4期16年にわたって公害反対の論陣を張られています。(2018,2)
下記は、左「全国有数の歯科群と言われる歯科センター(他に県下6診療所)」、右「新築のコープリハビリテーション病院、老健あかね」 |