連島側の新田開発その1 大江前新田のこと |
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今の水島地区は江戸時代以来、東は福田地区から、また北は連島地区から、西へ、南へと干拓が続き、倉敷市福田町〇〇と、また倉敷市連島町〇〇などとなりました。最後は東高梁川の廃川地が「倉敷市水島〇〇町」となっています。そしてさらにその先に巨大な臨海工業地帯が立地して、現在の姿になったのです。
「水島の歴史探訪」というこのホームページ、これはもう連島側の干拓についても調査しないといけませんね。で、さっそく『近世干拓の歩み(渡辺義明著)』にあたってみました。手書きですが、素晴らしい資料です。
イ)連島島南部海域の干拓
な、何と連島側新田開発は、江戸初期に今の亀島山までの東半分が一気に開発されていたようなのです。これは東の福田古新田(1724)よりもかなり早かったのです。 これは、それまで児島の西に連なる島だった「連島」が、西阿知から南へ伸びてきた新田開発により、嘉永6(1629)年やっと本土と陸続きになった・・・ということを思えば、そのあとの新田開発がすごく早く進んだといえるのではないでしょうか。 しかし、そのあとの連島西南部海域の干拓(鶴新田など)までにはおよそ100年もの間隔が空いたのです。 いずれにしても、福田側の小十郎新田や今の「元古新田」などが開発されていたころ、今の連島地区でも大きな干拓地が現出していたようなのです。ここ大江前新田もその1つです。「大江前新田三百年記念碑」を建てたこの地の人々の気持ちがわかるような気がします。
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あ、お隣が有名な薄田泣菫の生家だということも面白いところです。これについてもまたこのHPで触れたいと思います。(2016,12)
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