福田古新田開発の立役者
佐藤九郎兵衛の子孫です!
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 「もしもし、お聞きしますがそちら様は、古新田を開発した「佐藤九郎兵衛」さんのご子孫にあたられる方でしょうか??」  「そ、そうですが・・・」  何軒目かのお電話で、とうとう行き当たりました。ばんざーーい!!  ということで、福田町古新田にお住いの「佐藤毅」さんにお会いすることができました。

大岡越前守の裁定で

 そうなんです。倉敷市福田町古新田といいますと、江戸時代初期に当時の児島郡林の庄屋「佐藤九郎兵衛」さんが新田開発(干拓)を計画しましたが、上流の村々の「洪水がおこる」との大反対にあい、とうとう江戸の幕府へ訴えることになります。
 何度かの敗訴にもめげず、九郎兵衛さんは数年にわたって上京して願いあげ、とうとう大岡越前守の代になって、ようやく許可を得て開発したというものです。これは以前の「古新田のこと」でも触れています。

 探し求めていたその九郎兵衛さんのご子孫が、とうとう見つかったのです。感激です。

 「親父は興味をもって、いくらか資料を集めたりしていたようでした。でもまだ遺品整理もできていない段階で、資料などどこにあるか・・・」
 「干拓の後、林からこちらへ出てきて、庄屋を務めたということです。」佐藤毅さんのお話が続きます。
 「(倉敷市帯高の)片山家とは親戚になり、法事などでの行き来もあるんですよ。何だか屋敷の配置なんかも似ているそうです・・・」

 で、そのお屋敷を見せていただきました。

巨大な蘇鉄の木がある庭

 大きな門構えの立派なお屋敷です。入ると左側に庭がありました。
 庭の中央にびっくりするほどの大きな蘇鉄の木が座っています。手前に銅製の鶴が2羽飾ってありました。いかにも文化の香りがする庭構えではありませんか。
 あ、岡山県南に特徴の自然石の「金毘羅灯籠」も配置されています。

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「山田方谷」の額も

 母屋の中はまた圧巻でした。中国画の大きな襖絵のほか、ボタンを配した衝立、あっ、これは山田方谷の額もあるではありませんか。
 良い目の保養をさせていただきました。


奥様は県北湯原の出とか

 先代の奥様啓子さんがお元気で、いろいろと説明をいただきました。「私は湯原の進家の出なんですよ。当時は何事も家と家の婚姻でしてね。私の場合もご紹介する方がおられまして。」なんともお上品な方ですね。

 ところで、県北の「進氏」と言いますと、戦国時代鳥取の日野郡の有力氏族で、尼子氏の武将として活躍した記録が残っています。

 戦後まもなくまでは、元庄屋家など多くが、それぞれの家の間で縁組を進めていたといいますが、さきの片山家とのことに続いて、ここでもそのお話をお聞きしました。

お墓は、古新田共同墓地に

 最後にお墓にご案内いただきました。古新田の二福小学校から少し南へ下がったところに、巨大な集合墓があります。すごい数のお墓に私などいつも驚かされていたものです。
 これが「古新田共同墓地」でした。

 その北の端のあたりに、古新田の功労者「佐藤家」のお墓はありました。
 古いお墓が並んでいます。そのちょうど中央あたりにあったのが「佐藤九郎兵衛」さんの供養塔でした。

 苦労に苦労を重ねて完成させた古新田開発。今や家並が連なり、ほとんどが住宅地になっている様子を見て、地下の九郎兵衛さん、どんな感想を漏らしているのでしょうね。(2017,3)