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『水七尺』。帯江全域を”2m”の洪水が襲った

 帯江の歴史を振り返るとき、度重なる洪水の歴史を抜きには語れません。高梁川の扇状地の一部で、江戸以降の埋め立て地。そして2~3年に一度氾濫を繰り返したという暴れ川「高梁川」。

 

『嘉永洪水絵図』のこと

 帯江のお隣、都窪郡早島町にある戸川家記念館。早島戸川家の歴史を中心に、貴重な展示が数々あります。そのなかに「高梁川嘉永洪水絵図」というおよそ2m×1mの巨大な絵図があるのです。1850年(嘉永3年)に高梁川が氾濫して、帯江から早島一帯を洪水が襲ったときの様子を絵にしたものです。片山新介家文書とあり、倉敷市帯高の片山家に伝わったものです。太田宗喬(梅園)筆とあります。
 私も何回か訪れて見てはいたのですが、今回「早島の歴史史料編」に付録としてこの絵図が出版され、しげしげとながめて驚きました。
 まず第一にはその水の深さです。私の住む倉敷市亀山のあたりに「水七尺」という記述があるではありませんか。
うっ、2mを越える洪水だったのです(一尺は約30cm)。周囲をみても「水六尺」「水七尺」などという文字とともに、あちこちに船の絵が描いてあります。高梁川から遠いはずの早島のあたりも同様のようです。


早島町教育委員会所蔵(部分)

 
大土石流が高梁川河口を埋めて!

 高梁川の水は、今の倉敷市街地あたり、そして加須山の小瀬戸、旧の藤戸海峡の3ヶ所から東に流れ出し、帯江地区から豊洲地区、早島全域、南は茶屋町地区全域、岡山市の興除地区全域へと及んでいます。ほとんどが「水六尺」「水七尺」なのです。
 当時の高梁川は、今の川筋とは違ってもっと東側、倉敷市酒津からまっすぐ南へ流れ、連島と種松山の間の低地、倉敷市江長を通り、今の水島市街地あたりから海へと流れていたようなのです。
 そ、それにしても早島全域までなぜ水没??。これが私の疑問でした。しかし絵図を詳しく見て納得したのです。何と当時の高梁川の河口近く、今で言えば、倉敷市四十瀬のあたりから南へかけて黄色に塗られて点々が描いてあり、「川内如山砂石押出」などと書かれているではありませんか。高梁川を流れ下った土石流が河口付近を埋めてしまい、川はその上流の倉敷市安江で東に決壊し、全ての水が東側に流れ出していたのです。これなら早島あたりまで2mの水が襲うのも納得できてしまいますね。恐ろしいものです(同絵図の右写真参照)。当時の片山家でその様子を絵図で残そうと思ったのは無理もありません。この洪水は堤防が決壊した場所の地名を取って「安江切れ」というそうです。
 尚、この絵図と同じ構図で大きさもほぼ同じ、ただ各所で省略があるため、おそらくこれを手本にして描いたと思われる別の絵図が、加須山の尾崎家にも残されていて、現在倉敷市中央図書館に保存されています。

 

帯江村史による洪水記録

 このときの様子について「帯江村史」には新見市の田中正太郎家文書を引いて、およそ次のように書かれています。
 「嘉永3年(1850年)。正月に日食。異国より浦浦へ大船が来たと言う噂がある。5月から6月にかけて毎日雨が続く。6月始め3日間大水。(略)倉敷の町家は軒切り水となり、これより天城辺へ抜け、元海の如くなる。田畑の跡を船にて通った。およそ20日間水が湛えられた。河口あたりは埋もれておよそ2里(8キロm)の間、川が無くなった。」(口語訳杉原)。
 この年は、九州や中国地方を中心に、洪水や台風の被害が襲ったそうで「大悪年」「岡山県北では作物が取れなかった」などとも書かれています。(帯江村史p412)
 また帯江村史ではこのほかに次の3洪水をあげています(大要)。
1、慶長19年(1614)、酒津川(高梁川)本堤決壊。中帯江の前に淵が出来て、丸池と言った(これは今の倉敷市中帯江ではなく、加須山の丸池地区と思われる=杉原)。備中寅年の大洪水という。
2、承応3年(1654)、成羽水という。備前備中両国洪水となる。帯江村のうち小瀬戸に大水侵入。丸池淵となる。
3、延宝元年(1673)5月19日。八王子村700間決壊し大洪水。

 

暴れ川『高梁川』のこと

 「吉備郡史下巻」4002頁には、「131章天災地変」として高梁川の氾濫について書かれています。「今の総社市秦の板野さん所蔵の書物によると、寛文4年(1664年)から天保5年(1834年)のおよそ170年間に36回の水害を被っている。しかし多くは2~3年に一度おこっており、帳簿紛失等を考慮すると、高梁川は2~3年に一度沿岸に荒地を生ずる程度の洪水氾濫があったと記録されている。」(口語訳=杉原)
 すざまじいものですね。この天災地変と闘いながら私達の祖先は、この地に長い営みを築いてきたのです。
 この洪水は明治時代にも続き、東高梁川が締めきられてつけ変わるまで続いたのです。ちなみに東西に分かれていた高梁川下流域は、明治40年から大正14年にわたる大工事の結果、東高梁川は酒津で締めきられてなくなり、その河川敷は陸地となり、現在の水島市街地などとなってしまったのです。その後はこの帯江地区が高梁川の洪水に襲われることもなくなったわけです。
 しかしその直前までは洪水があったわけで、個人的なことになりますが倉敷市亀山の我が家は、明治27年(1894年)の洪水のあとの疫病(赤痢?疫痢?)流行で、私の祖父(当時9歳)を残して、父母兄弟4人が一ヶ月の間に全員亡くなるというような悲劇がおこっています。
 今は国道2号線が中央を貫く帯江地区です。こうして国道上の橋から見下ろしていますと、当時の洪水の様子などまったく思い浮かばない現況ですが、天災地変と闘い続けてきた先人たちの苦労は、時には思い描かねばと決心する今日このごろではあります。(2003,4)

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