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帯江高沼村庄屋・西山家のこと

 今「倉敷市帯高の歴史」を編纂中であることは、前回お伝えしました。皆様熱心で、毎月のように集まって相談したり、資料集めや原稿書きにと奔走されています。今回は江戸時代にこの地域の庄屋をつとめた、「西山家」についての調査です。

西山家屋敷跡のこと

 帯高地区の東端あたりに「広峯神社」があります。このあたりが旧西山家屋敷跡で、西山家は明治のころこの地を去って消息がなかったが、昭和51年の神社本殿拝殿造営60年祭のとき、笠岡から西山家子孫が来られて、寄付をされたということが記録されています、(高岩日記)
 今回その御子孫の消息が知れて、調査が一度に進みました。

西山家文書

 問い合わせたところ、古い資料は今の岡山県歴史資料館(岡山市南方)にあるということでした。以前に岡山県文化センターへ寄贈されたものが、今はそこへあるそうです。早速訪問して見せていただきました。

 な、なんと130点もの資料でした。全部はとても見られませんので、目録から10点ばかりを選んで見せてもらいました。
 「4代西山孝政画像」(下写真右)、「西山家累世位(系図)」「由緒書」「旅日記」「高沼村新田開発以来謂覚書控」・・・・などです。あとで見たら、中には「帯江村史」に載せられているものもあるようでした。
 今の浅口市占見の西山家から、倉敷市羽島の亀山家(隣の亀山新田開拓者)に婿入りした西山佐太夫が高沼村(帯高地区)に分家、その息子西山老政(~1675年)が高沼西山家初代となっているようでした。
 どれも、当時の帯高地区を知る、貴重な資料です。いくつか写真にも収めさせていただきました。

そして、11代目の御子孫に

 まずは西山家の御子孫という方をお訪ねしました。倉敷市の西山生介さんと言われました。
 「広峯神社が先祖の家の中にあったということで、一度行った事はあります。父は戦死していて、私は詳しいことは何も知らないんです。笠岡の叔母がもう少し詳しいと思いますよ」
 細面で、ちょっと平安貴族のような印象のその方は、ゆっくりと語られます。帯江村史の記述などを合わせると、目の前の西山さん、どうやら11代目になられるようです。
 ところが奥様が首をかしげながら「何だかお会いしたことがあるような?」と。いろいろ話していますと、岡山市の県庁近くの画廊喫茶「M’s]でお会いしているようです。私も旧職当時によく通った喫茶店です。そこへ絵を出品されたことがあるそうでした。奇遇といいますか、なんだか急に親しみがわいて、盛り上がってしまいました。で、写真をパチリ・・・

笠岡の富岡保育園で

 で、もう一人「笠岡の叔母さん」という人をお訪ねしました。何と、「富岡保育園」を開設された方で、坂本久さん。もう87歳ということでしたが、お元気の様子でした。あ、11代目の方と同じ細面で上品な方です。
 「昭和51年に帯高に行ったのは21歳上の姉の坂本澄です。父の西山鶴治は教師で、大正のころ朝鮮に行っていて、校長をしていました。」
 当時の写真が出てきました。「大正5年卒業生 海州公立普通学校」などとあります。
 「この中央のが父です。」なるほどなるほど、立派な髭をたくわえておいでですね。
 (ちなみに海州は、ソウルから北西に行ったところで、今は北朝鮮のエリアになっているようです。)

 いくつかの資料を見せていただきました。なかに「西山雅雄のこと(桑田康信・高梁川32号)」というのがありました。西山家5代の西山雅雄(1755~1816)が歌人であって、観月園鶴翁と名乗り、倉敷の井上家などとも親交があり、旅日記なども残されていることが詳しく書かれていました。(2009,3)

 旅日記で、吉野へ行ったときの歌です。

みよしのの 花のことたに おもえすは 身にうきあめは さのみいとはし

右に見つ 左に見つつ みよしのの さくらか中を 日一ひそゆく

(この吉野見物、どうやら雨にたたられたようです)

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