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植松駅から木見駅まで
倉敷市郷内地区を歩く

 秋の良き日、きれいに晴れ上がった一日、民放クラブ岡山支部歩こう会主催で、倉敷市の郷内地区を巡りました。この地域は瀬戸大橋の開通で、JRの植松駅から木見駅まで歩いて見学できるようになり便利になりました。で、私は今年からこの会の幹事で、説明役をも務めることになったのです。

 この地域は古代には淡路島に次ぐ瀬戸内海第2の島「児島」の北岸の入江が長い良港でした。奈良時代の条里制遺構も残り、倉敷市内では古代に栄えた地域です。
 最後には楽しい案山子たちの出迎えもうけ楽しい会になりましたがさて、ではどのような遺跡、遺物が残されているのでしょうか?

地域の有力寺院『一等寺』

 まずはここからでした。名前のように?この地域の有力寺院『一等寺』です。天平9年(737)行基が開基、本尊は阿弥陀如来。江戸時代に京都仁和寺の末寺でこの地域一帯13寺を束ねる中本寺となって、「一等寺」の名を授かるとあります。なるほど、巨大な本堂と勅使門とみられる門も備えられていますね。
 児島88カ所48番札所でもあります。

全国で特別な『熊野神社』のこと

 次は児島熊野神社です。ここの熊野神社は全国あまたある熊野神社のなかでも特別な存在と聞いていました。前回もすごいなーと思いましたが、来るたびに当時の児島文化のすごさを認識させられます。
 規模は少し小さいらしいですが、何しろ熊野本宮とそっくりに出来ているのですから。
 平成になって火災で焼失した「長床」(修行僧が滞留したという施設、写真右)も再建されていました。


 699年、役小角が伊豆に流されたとき、紀州熊野本宮の神人たちが難を逃れて本尊を持ち瀬戸内海を漂流、児島の地に上陸してこの地に熊野神社を祀ったそうです。その後鎌倉時代に後鳥羽上皇が隠岐に流されたとき、連座した王子、覚仁親王頼仁親王の二人がこの地に流され、児島修験再興の祖となったと言われています。

児島修験の中心『五流尊瀧院』

 次はお隣の五流尊瀧院です。
 まずは熊野神社境内にある三重の塔、そして近くの「後鳥羽上皇御影塔(写真中)」です。
 また、池のほとりに「覚仁親王」の墓所と言われる碑(写真右)もありました。

  

 ここは実は熊野神社とともに児島修験の拠点で、当時は「太法院」「報恩院」「建徳院」「伝法院」「尊瀧院」の5院があったうえに、新宮に見立てた「諸興寺(木見)」、「由加寺(由加)」とともに「新熊野山」と号していたそうです。
 それが戦国時代に延焼などで衰微し、その後再建したものだといいます。

 進んでいきますと新しいものですが「水子の碑」があり、壮観でした。
 広い境内が続きます。途中「児島高徳生誕の地」碑や、住職?の「宮家」という姓などについて解説しながら、下段の元の道路に下りました。

金毘羅往来と案山子

 ここは古くは「金毘羅往来」と言われ、岡山から四国の金毘羅さんに詣でる人が通る、いわば江戸から明治期までの主要交通路です。
旧街道の景色を眺めながら進みますと、傍らの田んぼに突然楽しい案山子が現れました。田の持ち主のご夫婦が作って飾っているとか。ほっとしばしの休憩を取りながらの道行きではありました。
 最後は「頼仁親王陵墓」です(写真下右)。ここはどうやら陵墓として確実らしく、さきの「覚人親王」と違って、宮内庁管轄とか。中に入れないのが残念でした。(2018,12)

  

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