明治になってまだ近代の軍隊が形になってないとき、明治六年(一八七三)徴兵制が布告されます。この徴兵令では、満20歳の男子から抽選で3年の兵役(常備軍)とすることを定めています。これは江戸時代の、軍隊は武士のみという庶民と明確に区分されたものと違って、国民皆兵を理念とし、庶民を戦争に駆り出す仕組みでした。しかし体格が基準に達しない者や病気の者などは除かれ、また制度の当初、「一家の主人たる者」や「家のあとを継ぐ者」、「官省府県の役人、兵学寮生徒、官立学校生徒などは徴兵免除とされていました。
その後この徴兵制を基盤に、アジア侵略から太平洋戦争へと突っ込み、日本国民のみならず、アジアや世界の人々に多大な辛苦を与えたこの徴兵制の発足のころの郷土資料を見てみましょう。
徴兵制のあとの倉敷市帯高近辺での文書が残っています。
1つは徴兵免除の願いで、明治七年十一月に、「長男のため十九歳になるが徴兵免除を」というもの、またもう一つはその半年後の「抽選の結果にかかわらず、弟を徴兵してほしい」というものです。家制度のため長男は徴兵免除がされたこと、最初の徴兵制度が抽選だったこと、農家の二男などが貧困のため新しい家を立てられず、志願で兵役に行ったことなどがうかがえます。
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私長男亀太郎儀当年十九歳に相成候間此段御届申上候以上
第十五大区小九区
窪屋郡帯高邑
百九拾九番地○
明治七年十一月十日 笹辺卯吉
戸長 有木源一殿
副戸長 西山次郎殿
右笹辺亀太郎儀者嗣子に付免役御規則中の者御座候
戸長 有木源一
副戸長 西山次郎
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徴兵御召抱願
第十五大区小九区
窪屋郡亀山村
二百八十六番地小川卯三郎弟
小川和吉
私儀徴兵当役ニ付御調査之上本月二六日抽選被仰付罷在候所何卒格別の思召以抽選ニ拘ず御召抱ニ相成り候様願○奉り願い候以上
右小川和吉兄
小川卯三郎
明治八年三月
右の通在○○御座候ニ付取次ぎ奉願上候以上
戸長 有木源一
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尚、その後明治十年が西南戦争、明治二七年が日清戦争です。
「あの大岩の由来を調べてほしい」という依頼を受けました。倉敷市笹沖の著名な足高神社の南、県営団地の東の辻にある大岩のことです。見るとどうやら大昔に足高神社の山からでも転げ下ちたらしい大きな岩です。しかし岩自体は祀られてもいないようです。でも、私の興味を引いたのはその一帯が地蔵や記念碑などがある、その地域のいわば聖地となっていることでした。
3つの碑がありました。一番大きな碑は、日清戦争の戦死者のものでした。これはあちこちにあるものの一つでしょう。
しかしその横にある2つの石碑には驚きました。
「鳥井五平招魂碑 明治十年西南賊起応徴従軍同年四月二十三日戦死於肥後国田原坂享年・・」
「堀田永作招魂碑 明治十年西南賊起応徴従軍同年七月二十四日戦死於大隅国福山柴立邸享年二十一・・・」

う~ん、西南戦争といえば、西郷隆盛が征韓論に敗れて薩摩に帰り、中央政府に反旗を翻して戦われた戦争です。時の明治政府としては、施行したばかりの徴兵制を活用して、この倉敷の笹沖地区からも多くの庶民を戦争に駆り出したものと見られます。1人は激戦があったことで有名な田原坂で戦死、もう一人は遠く薩摩の領内まで侵攻して犠牲になったようですね。
太平洋戦争で幾多の不幸を生んだ日本の徴兵制、その発足のころから庶民を泣かせていたという資料がこんなに身近にあったのには驚きでした。(2011,5)