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和意谷・全部ではありませんでした?
岡山藩池田家の墓所を訪ねて・深まる謎

 江戸時代、岡山藩池田家のお墓は、岡山県備前市吉永町の和意谷という、備前市でも北の端の山中にある。という話はずっと前から聞いていたのですが、私はまだ行ったことはなかったのです。

 亀趺(きふ)墓という、亀の背中に墓石が乗っている墓もあるとも聞いていて、歴史好きの私としたことが・・・・。
 で、小春日和のこの日、出かけてみることにいたしました。
 ナビでみますと、自宅から70キロ余り。山陽自動車道の和気インターておりて、それから・・・・。と約2時間の道程のようです。
 コロナ禍で長道中は本当に久しぶり、そのうえこの日は一人。高速もとろとろと100キロ走行。一般道になっても安全運転。次第に山道になって「こちら閑谷学校」という標識を見たころには、車一台がやっと通れる道も多く。
 おや、「和意谷池田家墓所」という標識を見て、「こちら駐車場」という道は本当に落ちそうでした。やっと3台分の駐車場も「まあ、観光客の来るところでもないし?」と3台分のみ。この日はなんとかもう一組の方も。
 そこから約1キロの山道、現地についてからも周回に2~3キロ。あー大変なところに来たと。でも来た以上はと、出発したのでした。

 道々、あ、この竹林が墓参りの前後に茶をたてた「茶屋」のあと、ここが「お茶水井戸」か、などと思いながら昇りの山道をゆっくりと。

一のお山「池田輝政」さん

 まずはここからでした。ここのお墓は「一のお山~二のお山・・・・七のお山」と、山中に点々と、七つに分かれていました。
 まずは一のお山。これは岡山池田家の初代と言われる「池田輝政」さんのお墓です。
 亀の土台の上に墓石が乗っているという、有名な亀趺墓はここ和意谷では、この初代さんのみでした。同じ池田系の鳥取藩のお墓はこの亀趺墓で有名だと言われていますが、岡山藩はなぜ初代にしか亀趺を使わなかったのでしょうか?疑問の残るところです。

 これは贔屓(ひき)という中国の伝説上の生物を石碑の土台に使ったもの。姿が亀に似ていることから、墓石が乗ったお墓を亀趺(きふ)墓というのだそうです。


 実際にはこのあと、遠い所にある「六」と「七のお山」にさきに行ったのですが、ここでは一のお山の周りにある二から五のお山の説明を先にします。

二のお山は、2代の池田利隆さん

 二のお山は、一のお山のすぐ近くでした。ただ、細かい位置から言うと、ここのお墓を作った3代の池田光政さんのほうが表で、この二のお山はその横にありました。
 戦国時代から江戸時代初期の大名などの系統は本当にややこしく、岡山藩に後に続く池田氏が入ったのは、次の池田光政さんからとなっています。
 この池田利隆さんは、この岡山池田宗家の2代で、2のお山に埋葬されていますが、実際には「播磨姫路藩の第2代藩主」だそうです。従って、「播磨姫路藩の第2代藩主。岡山藩池田家宗家2代」と言われるようです。

三のお山は「池田光政」さん

 次の三のお山には、高名な「池田光政」さんご夫妻が祀られています。
 この池田光政さんは、二のお山の利隆さんの長男で、父の跡を継ぎ播磨姫路藩の第3代藩主となります
 その後、鳥取藩主を経てこの岡山藩主にと移動します。
 まるで、今のサラリーマンみたいですが、江戸時代の初期にはこうした大名の移動や取り潰しが、けっこう頻繁に行われていたようです。
 そして光政さん、池田宗家の主として、岡山藩主のお墓をこの和意谷に作った人です。

 えっ、なんでこんな山の中へ?当然の疑問ですが、今回の調査を延長して、こんな疑問も解き明かしていきたいです。あ、出来るかどうかは???ですけど。

 そして、光政さん、いろいろと善政をほどこして、当時の国内でも三賢侯と言われるほどの有名な藩主さんになったようなんです。(下の写真参照)
  *もっとも、私個人としては、大変な仏教弾圧をした方として、あまりいい印象を持っていない人でもあります。


四と五のお山は、幕末から明治の人

 次は四と五のお山です。隣り合うこの2つは、何と幕末の岡山藩主で、明治にも生きた方々のご夫妻が祀られているのです。
 まずは四のお山、池田慶政(よしまさ)さん。池田宗家としては10代、岡山藩としては8代の方です。
 明治の25年ほど前、1842年に藩主に就任。ペルー来航などを経た後、1863年に隠居しています。
 次に五のお山。宗家11代の池田茂政(もちまさ)さんご夫妻のお墓です。
 この方、明治維新に遭遇しますが、15代将軍徳川慶喜の弟であったため、明治になった1868年に早くも隠居してしまいます。


 この二人、ともに明治30年前後まで寿命を全うされるのです。
 そして、明治政府から「従2位」「従1位」という先祖の池田光政さんよりもはるかに高い官位を受けたりしています。
 従ってこの2つのお墓は、明治になって作られたことになります。

六と七のお山は、ずっと離れた場所にありました

 そして、残る六のお山、七のお山は数百メートルも離れた場所にあり、アップダウンの激しい山道に、不肖私めはすっかり疲れてしまいました。
 そして、この二つのお山(お墓)、いずれも藩主墓ではなく、六のお山は7人、七のお山には、4人の、いわば池田光政さんの一族のお墓と言った方がよい方々のお墓が並んでいました。
 でも、後で調べたところでは、赤穂池田藩主、山崎池田藩主、鴨方池田家関連の方などのお墓が並び、また池田光政さんの肉親などのお墓もいくつかあるようでした。
 下記に六、七のお山の写真を少し載せておきます。

ますます謎の深まる「和意谷大名墓」

 以上でこの日のレポートを終わりますが、感想としては、和意谷の池田家のお墓、ますます謎が深まってしまったという事です。

  1.  池田宗家3代で、岡山藩創業者の池田光政さんが、熱意を込めて作ったこのお墓。その後の藩主たちはみな葬られず、墓参はあったのでしょうが、ほとんど無視された形になってしまっているように思われることです。はてさて、どんな事情が介在したのでしょうか?
  2.  光政さんが場所選定にあたってここを選んだのは、当時、岡山、姫路、鳥取などと、池田一門がほとんど100万石の大大名一門であったので、その中心地にお墓を造ったという説が結構有力らしいことです。はたしてそうなのか?
  3.  一族の中に播州赤穂藩があります。そこで、後の浅野家赤穂事件の前段ともいえるような奇怪な事件が起こり、その関係者のお墓が和意谷にあるのです。いったいどんな事件だったのか?調べてみる必要がありそうです。
  4.  その他、まだまだありそうな岡山藩ですね。

 以上、ひまひまに調べようとは思いますが、何しろ私にとっては凄く思いテーマです。調べられるかどうか??(2021,2)

 * 帰路は高速ではなく国道2号線を帰りました。そして備前市の「ピッコロ」というお店で美味しいラーメンをいただいて、疲れをいやしながら帰ったことを付記しておきます。

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