次の三のお山には、高名な「池田光政」さんご夫妻が祀られています。
この池田光政さんは、二のお山の利隆さんの長男で、父の跡を継ぎ播磨姫路藩の第3代藩主となります
その後、鳥取藩主を経てこの岡山藩主にと移動します。
まるで、今のサラリーマンみたいですが、江戸時代の初期にはこうした大名の移動や取り潰しが、けっこう頻繁に行われていたようです。
そして光政さん、池田宗家の主として、岡山藩主のお墓をこの和意谷に作った人です。
えっ、なんでこんな山の中へ?当然の疑問ですが、今回の調査を延長して、こんな疑問も解き明かしていきたいです。あ、出来るかどうかは???ですけど。
そして、光政さん、いろいろと善政をほどこして、当時の国内でも三賢侯と言われるほどの有名な藩主さんになったようなんです。(下の写真参照)
*もっとも、私個人としては、大変な仏教弾圧をした方として、あまりいい印象を持っていない人でもあります。

次は四と五のお山です。隣り合うこの2つは、何と幕末の岡山藩主で、明治にも生きた方々のご夫妻が祀られているのです。
まずは四のお山、池田慶政(よしまさ)さん。池田宗家としては10代、岡山藩としては8代の方です。
明治の25年ほど前、1842年に藩主に就任。ペルー来航などを経た後、1863年に隠居しています。
次に五のお山。宗家11代の池田茂政(もちまさ)さんご夫妻のお墓です。
この方、明治維新に遭遇しますが、15代将軍徳川慶喜の弟であったため、明治になった1868年に早くも隠居してしまいます。

この二人、ともに明治30年前後まで寿命を全うされるのです。
そして、明治政府から「従2位」「従1位」という先祖の池田光政さんよりもはるかに高い官位を受けたりしています。
従ってこの2つのお墓は、明治になって作られたことになります。
そして、残る六のお山、七のお山は数百メートルも離れた場所にあり、アップダウンの激しい山道に、不肖私めはすっかり疲れてしまいました。
そして、この二つのお山(お墓)、いずれも藩主墓ではなく、六のお山は7人、七のお山には、4人の、いわば池田光政さんの一族のお墓と言った方がよい方々のお墓が並んでいました。
でも、後で調べたところでは、赤穂池田藩主、山崎池田藩主、鴨方池田家関連の方などのお墓が並び、また池田光政さんの肉親などのお墓もいくつかあるようでした。
下記に六、七のお山の写真を少し載せておきます。
以上でこの日のレポートを終わりますが、感想としては、和意谷の池田家のお墓、ますます謎が深まってしまったという事です。
- 池田宗家3代で、岡山藩創業者の池田光政さんが、熱意を込めて作ったこのお墓。その後の藩主たちはみな葬られず、墓参はあったのでしょうが、ほとんど無視された形になってしまっているように思われることです。はてさて、どんな事情が介在したのでしょうか?
- 光政さんが場所選定にあたってここを選んだのは、当時、岡山、姫路、鳥取などと、池田一門がほとんど100万石の大大名一門であったので、その中心地にお墓を造ったという説が結構有力らしいことです。はたしてそうなのか?
- 一族の中に播州赤穂藩があります。そこで、後の浅野家赤穂事件の前段ともいえるような奇怪な事件が起こり、その関係者のお墓が和意谷にあるのです。いったいどんな事件だったのか?調べてみる必要がありそうです。
- その他、まだまだありそうな岡山藩ですね。
以上、ひまひまに調べようとは思いますが、何しろ私にとっては凄く思いテーマです。調べられるかどうか??(2021,2)
* 帰路は高速ではなく国道2号線を帰りました。そして備前市の「ピッコロ」というお店で美味しいラーメンをいただいて、疲れをいやしながら帰ったことを付記しておきます。