|
『当時小学校の運動場は畑にしてお芋、野菜など作付けしていました。疎開で東京大阪方面などから大勢来られて、クラスは60~70人となっていました。この頃氏神様の貴船神社は武運長久のご祈念で賑わっていました。また金属不足とかでお寺の釣鐘や鉄骨の半鐘台、鉄の火鉢、鉄瓶、二宮金次郎の置物まで供出されるありさまでした。(その後釣鐘は、昭和24年再建されました) 戦争も長期戦となり、航空機の燃料が不足のため代用の松根油の大増産が呼びかけられました。村の人たちが、山から松の根を掘り出した後、私らは昭和20年からは学校へいかず、学徒動員で中帯江のポンプ小屋(消防機庫)に集まり、松の根を掘った後を畑にするため毎日山へ行きました。当時は大変な食糧難でしたので芋など植えていました。
その後6月22日には水島軍需工場の空襲、6月29日には岡山空襲がありました。今度は倉敷とみんな話していて、親戚や知人などから疎開の荷物が運ばれてきて、部屋、納屋などにみんな預かっていました。 終戦後の夏観音の縁日(当時は旧暦の7月17)にも、朝からの大勢のお参りの中、ゼロ戦が来て特攻隊員の神社(かんじゃ)さんが、市内西田で自爆されました。私も縁日を後回しにして、走って自爆現場に立ち会いました。こうして戦争は当時13歳の私にとっても、なんともいえないつらい思い出です。』
ネット版では、この項目は省略します。
|