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![]() そのときに書いた倉敷市西田にある「安原備中守」という名前がついた土地のことです。そこにある石碑のなぞについてです。 気になる、気になる・・・・ということで再訪してみました。大きな楠木の下の小さな石碑ですが、表にはこう書いてあります。
『霊亀元年 また、裏には
『明治二三年二月
霊亀元年とは、まともに読めば西暦で715年?奈良時代の初期になります。ここは江戸初期の新田地帯です。何かの間違い??と4年前には見落としていたのですが、どうも気になります。 |
徳川家康との会見で・・ |
えっ、そうすると。おそらく江戸初期にこの地に入植した安原家は早島の安原家から出たというのが順当な見方でしょう。 そうすると、早島の安原家にも同じ伝承が残されていたと考えるべきでしょうね。当然「安原備中守」もそのことを知っていた・・・。
ここで私の思考は一挙に400年を遡ります。そう、あの徳川家康との大阪での会見のことです。 PS:「草部備中守」については、今の矢掛町にあった「備中国小田郡草壁郷」に代々伝わった「庄氏」が想定されます。初代猿掛城主でもあったようですが、この庄氏は鎌倉時代に関東から来た人といいます。なら、早島安原氏の先祖はその前に備中草壁郷にいた一族ということになるのでしょうか?
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